同人ソフト制作部屋 分室

同人サークル「Segment-R」の活動紹介。何か同人ソフトを作るヒントが見つかるかも

 

『(ラノベ)作家志望者の言う「キャラが勝手に動く」の問題』を見て

anond.hatelabo.jp

匿名日記にこんなスレがありまして。それを見て自分が思った事を書かせて頂きます。

 

 

創作物の話の流れの最終的な責任は作者自身にある

 

スレ主は、おそらくそういう事を言っているのだと思います。その辺りは同感です。

 

また、大切なのは面白い作品を作る事であって、非凡な方法で話を書く才能があったとしてもそれで出来る作品がつまらないなら意味がないし、凡庸な作法で書いてもそれで作品が面白いならそっちの方が優れているって事なわけで。それが1番に重要だと思います。

 

少なくとも「キャラが勝手に動いた」なんて言い訳は、つまらない話を作ってしまった責任を回避する理由にはなりはしないと言う事です。

 

そういう事なら、スレ主の意見は自分の考えと大して相違ないと思います。

 

ただ、気になる点として、スレ主は「基本的に『キャラが勝手に動く』のは錯覚だ」と言っています。またスレで語られている専門学生の言い方はリアリティを追求するスタンスの比喩であり、実際に本当にキャラが頭の中で自律的に動いている現象を指しているわけでは無さそうです。

 

でも、プロで「キャラが勝手に動く」という事をおっしゃっている作家は「本当にキャラが頭の中で動く」という風に語っており、またスレ主自身も「主張する作家10人に1人の天才的な描き手は、そういう感覚を実際に体験しているのかも知れない」と言っています。

 

だからといって、少なくとも脳の中に自分以外の人格が発生してそれが勝手にキャラを動かしている、という事はあり得ないわけでw どういう形であれ、本人の脳みそからひり出されているのは間違いないでしょう。

 

では「キャラが勝手に動く」というのは実際はどういう現象なのでしょう?

 

「キャラが勝手に動く」って何?

 

でまあ、いろいろな人の話を聞いて自分の中で得た結論というか仮説としまして、「キャラが勝手に動く」という現象はぶっちゃけ高度な妄想だと捉えてましてw 

 

いや、別に錯覚を別の言い方に置き換えて「非現実的だ」と言いたいわけではないのですw

 

個人が、好きな人やキャラに対して抱く妄想。その中に出てくる妄想の対象ってわりかし自立性がある……ていうか妄想って、考える間もなく勝手に頭から湧き出してくるもので。

 

少なくとも妄想対象となっている人物なりキャラなりの発言なり行動なりについてあまり「こうしよう」とか「ああ動かそう」とか考え悩まないわけです。妄想が始まるとその対象となっている相手はある程度勝手に動いてくれるわけですよw

 

で、この擬似的な自立性こそがキャラが勝手に動く事の正体なんだろうと。

 

で、創作中に「キャラが勝手に動く」のを体験している人は妄想の敷居が低く、欲望とかそういう大きな動力源に頼らなくてもちょっとした空想とか想像とかでキャラの行動がひとりでに湧き出してくる。そういう事になっているのかなと。

 

それは実際、刹那の間に頭の中のどこかでは脳細胞が物理的な反応を起こして自分の願望を投影しているはずですが、その過程が知覚される事無く(あるいは知覚する間もなく)その結果だけが頭の中に浮かび上がる。人間の脳には誰にで大なり小なりもそういう現象なり機能なりがあるのではないかと思うわけです。根拠はありませんがw

 

「高度な妄想」を創作の中に取り入れる難しさ

 

しかし、もし本当に「キャラが勝手に動く」のが高度な妄想だとすると、これを作法のメインに据えるのには困難も多くありまして……。

 

まず、ニッチなモノになりがちである事。趣味が似通っているなど妄想が共有できる人にはすごい刺さるかもしれません。しかしそういうネタは刺さらない人には本当に全く刺さらないです。

 

それでも、市場を形成出来る数くらい刺さりそうな人が沢山いれば、それは食っていくには問題ない作品となるわけですが、そういう数万人単位で刺さりそうな妄想が出来る人はめったにいません。

 

精々、妄想を同人誌にして売って小遣い稼ぎが出来る程度が関の山でしょう。え? 壁サークル作家はどうなのって? あれは殆どが努力と計算と経験のたまものですってw

 

では、妄想をある程度コントロールするのはどうでしょう? 妄想を垂れ流しながらも、それを所々で軌道修正して面白いモノに、万人に受けそうな方向にもっていくやり方。

 

それなら、ただの妄想を垂れ流すよりははるかに刺さる可能性が高いです。しかしそれとて、いばらの道です。

 

なぜなら、出来た物が面白いかつまらないか自分で判断するのが難しいから。だって、自分の妄想ですよ? それが形になって『自分にとって』つまらないわけないじゃないですかw

 

それを軌道修正するという事は、自分にとって面白いと感じたものを、敢えて崩すという事なわけで。実際にやってみると、面白いモノを敢えて自分で台無しにしている感覚さえしてくるのです。しかもその感覚は『局所的には』あながち間違っていない可能性もあります。

 

「キャラが勝手に動く」面白さは局所的

 

「キャラが勝手に動く」事に頼って作った話が本当に面白かったとしても、それはあくまで局所的である場合が殆どです。出来上がるお話のキャラクターは、その場その場のノリで反射的にユニークな反応をするオブジェクトに過ぎません。

 

ギャグ系やエロ系や萌を主体としているような作品ならそれで十分であるし、むしろそういう刹那的なものが望まれているとすら言えるのですが、例えばストーリー重視の作品をこの手法だけで作るのはかなり難しいと思います。てか3幕構成とか伏線とかそんなのが入りこむ妄想ってどんな妄想やねんって話ですw

 

それに、面白い物語のキャラクターが、一部の隙も無く常に面白い事をしているかというとそうではないはずです。最終的な結末の為にその場では白けるような行為をする事だってあるはずです。

 

よほど天才的な感性や俯瞰視点を持っているか、読書経験などで物語の類型が自然と頭から垂れ流されるようなそんな才覚を持っていないと、そういったことを妄想に織り交ぜるのは難しいでしょう。

 

ゆえに、ストーリー物では個々の場面の面白さに捕らわれていては全体的に面白くする事は難しく、場面単体を多少盛り下げるような軌道修正が必要になる場合もあるという事です。

 

手段と目的を取り違えない

 

最初に言った通り、一番大切なのは「面白い作品を作る」と言う事だと思います。高度な妄想がそれに一役買っているというのならその技能を使っても構わないでしょう。しかし、その場合自分自身の作品を自分は客観的に評価出来ているのか、常に自分に問いかけ注意深く判断する必要があると思います。

 

そしてその才能で食っていこうと考えているのなら、その技能が自分の書きたい方向性に向いているかどうかを判断し、仮に向いていない場合それを補う自分だけの作法を一人で探っていかなければならないけど大丈夫か、という辺りを考える必要があると思います。

 

それが出来ずに単に「他の人とは違う事が出来る」という誇らしさだけで道を判断すれば、本来なりたかったものへの道のりが遠回りになるか、最悪たどり着けない事もありえると思われます。